何年もカメラを握っていれば、狙った絵は、撫でるように手に入るようになる。怖いのは、そこからだ。撮れてしまう手は、いつのまにか「うまさ」で世界を掴みにいく。整え、寄せ、光を選び、対象を自分の絵のほうへ従わせる。
これは、神田四葉きゅうりの表皮を撮った一枚だ。在来種の、あのイボと深い皺の連なりを近くで見ると、それは野菜であることをやめて、皮膚のような、地形のような、何か生き物めいた帯になる。美しいと思う。けれど正直に言えば、この美しさは、私が制御した美しさだ。手放した写真ではなく、手放したように見せる技巧のほうに、まだ近い。撮れる手が、勝手に差し出してくる絵。
ロラン・バルト1※1は、写真に二つのものがあると言った。ストゥディウム――教養や関心で読み解ける、他人と共有できる部分。そしてプンクトゥム――こちらの意…




