何年もカメラを握っていれば、狙った絵は、撫でるように手に入るようになる。怖いのは、そこからだ。撮れてしまう手は、いつのまにか「うまさ」で世界を掴みにいく。整え、寄せ、光を選び、対象を自分の絵のほうへ従わせる。
これは、神田四葉きゅうりの表皮を撮った一枚だ。在来種の、あのイボと深い皺の連なりを近くで見ると、それは野菜であることをやめて、皮膚のような、地形のような、何か生き物めいた帯になる。美しいと思う。けれど正直に言えば、この美しさは、私が制御した美しさだ。手放した写真ではなく、手放したように見せる技巧のほうに、まだ近い。撮れる手が、勝手に差し出してくる絵。
ロラン・バルト1※1は、写真に二つのものがあると言った。ストゥディウム――教養や関心で読み解ける、他人と共有できる部分。そしてプンクトゥム――こちらの意図とは無関係に、ふいに私を突き刺してくる細部。バルトが繰り返し言うのは、プンクトゥムは作れない、ということだ。構図でも技術でも、狙って生み出すことはできない。それは撮り手の「うまさ」が決して届かない場所から、向こうからやってくる。
柳宗悦※22は、名もなき職人の器に美を見た。うまく作ってやろうという自意識を手放したところに、無心のうちに立ち現れる美。柳はそれを、他力と呼んだ。自分の力――自力――で美を掴むのではなく、大きな働きに委ねて、美を受け取る。畑で種に委ねるのと、同じ言葉だ。全部は芽吹かない。どれが芽吹くかは、こちらの都合では決まらない。
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では、上手さを手放した写真とは、具体的に、どんな写真なのだろう。
いちばんの違いは、そこに写真家がいるかどうか、なのだと思う。うまい写真は、見た人にまず「うまいですね」と言わせる。構図の妙、光の選び方、切り取りの鋭さ。技術がこちらの目を引き、感心させる。けれどその感心は、被写体ではなく、撮った人間のほうへ向かっている。写真家が、被写体の前に立ってしまっている。
手放した写真は、逆だ。撮った人間が後ろへ退いて、見えなくなる。見る人は、うまさに感心する前に、豆そのものに、きゅうりそのものに、出会ってしまう。柳の言う無名の職人と同じで、作り手が消えるほど、もの自体がくっきりと立ち上がる。
だから手放した写真は、たいてい、地味だ。整えすぎない。豆の不揃いを、揃えない。列を乱した一粒を、律儀に直さない。光も、劇的にしない。一見すると、標本の記録のように、あるいは撮り損ねのように見えることさえある。「上手ですね」とは、たぶん、言われない。
そこが、勇気のいるところだ。手放すとは、その場でもらえるはずの拍手を、手放すことでもある。うまく見せる代わりに、もの自体に語らせる。速く伝わる感心を捨てて、遅れてやってくる何か――見た人が、なぜか目を離せずに、もう一度見てしまう、あの小さな引っかかり――のために、席を空けておく。
見分ける方法は、ひとつしかないと思う。技術を取り除いてみて、あとに何が残るか、だ。うまいだけの写真は、うまさを抜くと、何も残らない。手放した写真は、はじめからうまさが主役ではないから、こちらの小細工を抜いても、被写体がそこに、前よりも生々しく立っている。
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もう一枚は、ムクナ豆だ。水に二、三日浸けて、戻したもの。乾いて眠っていた豆が、水を吸って膨らみ、艶をまとい、皮を張らせている。並べて撮ると、一粒ずつ、へその黒い痕も、まだらも、皺も、まるで違う顔をしている。
この豆たちのうち、いくつかは、このあと芽を出して畑へ行った。いくつかは、そのまま芽吹かなかった。
写真の上では、どれがどちらか、もう分からない。同じ日に、同じ水に浸かって、同じように膨らんで、同じ艶をまとっている。生きて次へ行った豆と、そこで止まった豆が、無差別に隣り合って並んでいる。撮った私にも、その瞬間には分からなかった。
私はここで、写真の限界にぶつかる。これほど近づいて、これほど整えて、光まで選んで――技術のすべてを尽くしても、この写真は、いちばん大事なひとつを写せない。どの豆が生きたのか。カメラは、それを見分けられない。
けれど、たぶん、そこにこそプンクトゥムはある。写り込んだ細部としてではなく、写らなかったものとして。この豆のどれかは芽吹き、どれかは芽吹かなかった、そしてもう見分けられない――その事実のほうが、静かにこちらを刺す。
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上手さを手放す勇気とは、この見分けられなさを、欠点ではなく核心として引き受けることなのだと思う。自力を手放して、他力に委ねること。豆に、豆の秘密を持たせたまま撮ること。うまく説明してしまわないこと。
正直に打ち明ければ、私はまだ、この手前にいる。冒頭のきゅうりのように、うまく撮れてしまう手を、いまも持て余している。手放すことは、私自身の、これからの課題だ。それでも、この豆を並べて撮ったとき、ほんの少しだけ、自分の手が後ろへ退くのを感じた。たぶん、そこから始めるしかない。
種を継ぐというのは、毎年この「選べなさ」を受け取ることだ。写真もきっと同じで、いちばん写したいものは、たいてい私の手の届かないところにある。それでも、シャッターを切る。届かないと知りながら、向こうからやってくる何かのために、席を空けておくために。
注
※1 ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915–1980) フランスの批評家・思想家。最後の著作『明るい部屋』(1980)で、写真について考えた。亡くなった母の一枚の古い写真を見つめながら書かれた本で、そこで彼は写真を二つの層に分けている。ストゥディウム(studium)は、文化や知識をもって「なるほど」と読み解ける、誰とでも共有できる関心。プンクトゥム(punctum)は、その読解をすり抜けて、見る者を不意に刺してくる細部——撮影者が意図して置いたものではなく、たいていは偶然そこにあってしまったもの。バルトは、このプンクトゥムこそ写真の核心でありながら、狙って作ることはできない、と繰り返した。
※2 柳宗悦(やなぎ・むねよし/そうえつ, 1889–1961) 日本の思想家。名もなき職人がつくった日々の道具——茶碗、布、籠——に美を見いだし、それを「民藝(民衆的工藝)」と名づけて、民藝運動を起こした人。1936年には東京に日本民藝館を開いた。柳が重んじたのは「用の美」、つまり使われるためにつくられたものに宿る美しさで、そこでは作り手の自意識や個性は、むしろ邪魔になる。晩年は仏教(浄土思想)に深く分け入り、美は自分の力(自力)で掴み取るものではなく、大きな働きから受け取るもの(他力)だと考えた。本文の「無心」も「他力」も、この文脈から来ている。



