2026年10月26日。満月の日だった。
長いあいだ、胸のどこかでモヤモヤしていたものがあった。言葉にしようとすると逃げていく、輪郭のない何か。それが、その日、暗闇がぱっと開いたように、一つの問いになって降りてきた。
“見た目で、内面は写るのか?”
今日は、この問いのことを書いておきたい。たぶんこれが、これからの私の写真の、根っこになっていくからだ。
私に見えているものは、他者には見えない
ずっと、うすうす気づいていたことがある。
“私が見えているものは、他者には見えない。”
私が長年撮ってきたものは、写真になったとたん、他者にはもう見えなくなっていた。私がシャッターを押したときに確かにそこにあった何かが、一枚の写真の中で、するりと抜け落ちてしまう。見る人には、ただの野菜であり、ただの人の顔であり、ただの風景として映る。
それが悪い写真だったから、というだけではない気がしていた。もっと根の深いところに、理由がある。そう感じながら、それが何なのか、言葉にできずにいた。
毎日、畑で見ているもの
私は、京都南部の田舎で、自然農を実践している。
売るための野菜作りではない。自然農とは、無農薬・無肥料で、固定種の種から育てる農のことだ。耕さず、肥料を与えず、土そのものの力で野菜が育つ。そして、その野菜から種を採り、次の世代へ受け継いでいく。古来から、人がずっと続けてきた農の営みだ。
毎日、畑に行く。そこには、生命力にあふれた野菜たちがいる。
自然のリズムで日々を送っていると、四季の変化に、体が少しずつ馴染んでいく。朝の空気の冷たさ、土の匂い、草の伸び方。暦を見なくても、季節が体の中を通っていくのが分かるようになる。そして私はいつのまにか、自然の植物から“美意識”を受け取りながら暮らすようになっていた。
けれど、ここに一つの壁があった。
この、身近に感じている生命力を、どうすれば他者に伝えられるのか。
固定種の野菜と、F1種の野菜。見た目だけでは、ほとんど区別がつかないこともある。無肥料で、自分の力で育った野菜と、肥料を与えられて大きく育った野菜。写真に撮れば、どちらも同じ「野菜」として写るかもしれない。
でも、私は知っている。その内側に流れているものが、まるで違うことを。
愛おしい人を撮れば、その愛おしさは写るのか
同じ問いは、人を撮るときにも、ずっとそこにあった。
子どもたちが小さかった頃、私はよく子どもの写真を撮った。愛おしかったからだ。
では、愛おしい人を撮れば、その愛おしさは写るのだろうか。
写真に写っているのは、あくまで外側だ。顔のかたち、肌の色、表情、光の当たり方。けれど、私がシャッターを押したのは、その外側のためではなかった。その人の内側にあるもの、私の中に湧き上がった愛おしさ。それを撮りたかったのだ。
野菜も、人も、問いは同じだった。
魂が震える時
振り返ってみると、私はずっと、同じようにシャッターを押してきた。
“人も、野菜も、私の魂が震える時に。”
スリランカの仏歯寺で、祈りを捧げる人々を前にしたとき。人のポートレートを撮るとき。そして、毎日の自然農の畑で、野菜と向き合うとき。被写体はまったく違う。けれど、私の中で起きていることは、同じだった。何かが震え、その瞬間に、指が動いていた。
その「何か」を、私はずっと撮ろうとしてきたのだと思う。
外側を撮りながら、内側を撮ろうとしていた。見た目の向こうに、見えないものを写そうとしていた。それが、他者には見えなかった理由であり、同時に、私が撮りつづけてきた理由でもあった。
満月の日、ようやくそのことを「問い」として言語化できた。
問いは、すぐに答えの出るものではない
“見た目で、内面は写るのか?”
正直に言えば、まだ答えは分からない。写るのかもしれないし、写らないのかもしれない。写るとしたら、どうすれば写るのか。それも分からない。
でも、それでいいのだと思っている。
自然農の営みと、どこか似ているからだ。種を蒔いても、すぐに実るわけではない。土は一年で出来上がるものではなく、草を重ね、年を重ねて、少しずつ育っていく。種もまた、毎年採って蒔きつづけるうちに、ようやくその土地に馴染んでいく。答えを急がず、日々の営みの中で、ゆっくりと確かめていくもの。
この問いも、きっとそうやって育てていくものなのだろう。
これから私は、この問いを抱えて、畑に立ち、人と向き合い、シャッターを押していく。見た目で、内面は写るのか。その答えが少しずつ見えてきたら、またこの手帖に書いていきたい。
西口吉宏|写真作家・自然農実践家



