「食べたもので、体はできている。」
誰もが一度は聞いたことのある言葉だと思います。
でも——聞いたことがある、ということと、本当に知っている、ということは、まるで違う。
正直に言えば、僕自身、ある時まではこの言葉を聞き流していた一人でした。
以前、息子のアトピーをきっかけに食を見直した話を書きました。
今日はその続き——なぜ僕が、食から「畑」にまで行き着いてしまったのか、という話です。
一冊から始まった、27年の読書
きっかけは、27年前に手に取った一冊、『フィット・フォー・ライフ』でした。
でも、面白いことに、一冊では終わりませんでした。
読むほどに分からないことが増えて、また別の本を開く。
『フィット・フォー・ライフ』の流れを日本で受け継いだ、松田麻美子先生の『50代からの超健康革命』。
栄養を、部分ではなく”丸ごと”で捉え直すT・コリン・キャンベルの『WHOLE』。
そして、流行りの食事法に静かに警鐘を鳴らす、鈴木晴恵先生の『「低炭水化物ダイエット」への警鐘』。
一冊が次の一冊を呼び、食と体、いのちと健康について、気づけば何冊も、何十冊も読み継いでいました。
一冊の本というより、長い一本の糸を、27年かけてたぐってきた感じがします。
本の向こうにいた人に、会う
実を言うと、この三冊の著者のうち、お二人には直接お会いしたことがあります。
きっかけは、松田麻美子先生が京都で講演をされた夜でした。
講演のあとの二次会は、『「低炭水化物ダイエット」への警鐘』の著者であり医師でもある鈴木晴恵先生が営む、オーガニックカフェ「CHOICE」で開かれ、僕もその席にいました。
鈴木先生とは、その後も折にふれてお会いしています。
けれど松田先生にお会いできたのは、結局、あの一夜きりでした。
その数日後だったのです。松田先生が、次の東京での講演を前に、突然この世を去られたのは。
あまりに急な報せに、しばらく言葉が出ませんでした。
お会いしたばかりの方が、もういない。
それでも不思議と、先生が生涯をかけて伝えようとされたこと——「食べたもので、体はできている」という、ただそれだけのことの重さが、その日からいっそう確かなものになった気がします。
命には限りがある。だからこそ、何を食べ、どう生きるか。先生が遺した問いを、僕は今も畑で、自分なりに受け取り続けています。
頭ではなく、体で知る
学んでいくうちに、「食べたもので体はできている」という言葉は、僕のなかで知識ではなくなっていきました。
自分の体が、家族の体が、変わっていくのを目の当たりにしたからです。
頭で納得したのではなく、体で思い知らされた。
一度そうなると、もう後戻りはできません。
何を口に入れるかが、そのまま自分になる——それが、僕にとっては当たり前の感覚になりました。
「食べるもの」から「育てかた」へ
ここまで来ると、ひとつの問いが自然に立ち上がってきます。
体が、食べたものでできているのなら——その食べものは、いったい何でできているのか。
どう育てられ、何をかけられ、どんな土から来たのか。
「何を食べるか」だけでは、もう止まれなくなったのです。
そして気づきました。
市販される野菜は、僕たちの体のためというより、「出荷基準」に合わせてつくられている、ということに。
形がそろい、傷がなく、日持ちして、遠くまで運べる——それは流通の都合であって、自給自足のために育てる野菜とは、目的からして別物なのだ、と。
結局は、「誰が作ったか」
決定的だったのは、ある話を聞いた夜でした。
長野で、娘さんのために広い土地を手に入れ、自然農で野菜を育てている農業法人の社長がいます。
その方が以前、ある集まりの二次会の席で、「オーガニック」を掲げる別の会社の社長たちに、こう尋ねたそうです。「本当に、無農薬で作っているんですか?」と。
すると——出荷するために、いちばん最初の段階で、虫がつかないよう農薬で消毒している。
そう漏らした人がいた、というのです。
僕は、すべての表示を疑いたいわけではありません。
真剣に無農薬に取り組んでいる人を、たくさん知っています。
ただ、この話を聞いたとき、はっきりと感じたことがありました。
ラベルや言葉だけでは、結局のところ確かめきれない。
最後に残るのは、「誰が、どんな思いで作ったのか」——つまり、信用の問題なのだ、と。
だから、自分の畑へ
体は、食べたものでできている。
その食べものは、誰が、どう作ったかで決まる。
ならば、いちばん信用できるのは——自分の手で、土も体も汚さずに育てたものだ。
そうやって、僕の「食への意識」は、最後に一枚の畑へたどり着きました。
無農薬から始まり、やがて自然農へ。
遠回りのようで、振り返れば一本道だったのだと思います。
学びは、まだ途中
偉そうに書いてしまいましたが、僕の学びもまだ途中です。
そして「食べたもので体はできている」を本当に体で知る機会は、多くの人にとって、ただ巡ってこなかっただけなのだとも思います。
誰も教えてくれないことだから。
でも、それを学び直す場所は、案外すぐそこにあります。
ベランダに置いた、たったひとつのプランターでいい。
自分の手で育てた野菜をひと口食べたとき、きっと、あの言葉の意味が、頭ではなく体に届くはずです。
——その最初のひと口を、一緒に育てられたらうれしいです。


