先日、宇治のファーマーズマーケットに出店した。
農家の出店は四軒ほど。そのうち自然農は、僕ともう一軒だけだった。ほかはすべて、慣行農法の農家さんだ。
会場がオープンしてしばらくすると、ある店の前に、人の列ができはじめた。
何だろうと思って見に行くと、ナス、ピーマン、ネギが山のように積まれていて、
“袋に入れ放題で500円”。それを目当てに、たくさんの人が並んでいた。
近くで見て、僕はすぐに分かった。それはどれも、曲がっていたり、形がいびつだったりして、出荷の基準に合わなかった野菜たちだった。普通なら、畑に捨てられてしまうものだ。
その光景の前で、僕は少し、悲しい気持ちになった。
誤解のないように書いておきたい。
“その店が悪いと言いたいのではない。”
捨てられるはずだった野菜が、誰かの食卓にのぼる。それはむしろ、いいことだと思う。形が悪いだけで、食べられないわけではないのだから。
僕が悲しかったのは、そこではない。
並んでいる街の人たちの目に、その野菜が“「安く売っている野菜」としか映っていないように見えた”ことだ。
この野菜は、どんな土で育ったのか。どんな種から生まれたのか。なぜ、こんな形になったのか。――そういうことを考える手がかりが、いまの暮らしの中には、ほとんどない。野菜の価値を測るものさしが、“値段”と“見た目”しか残っていない。それは、並んでいる人のせいではない。そういう時代を、僕たちは生きてきたのだと思う。
僕は、固定種の種から野菜を育てている。肥料を与えず、土の力を引き出す自然農だ。
種を採り、また蒔き、何年もかけてその土地に馴染ませていく。形は揃わないし、たくさんは採れない。効率でいえば、まるで逆を行っている。
それでも毎日のように畑に通うのは、“本当に美味しい野菜を、自分も食べたいし、何より子どもたちにこそ食べてほしい”からだ。
僕には、三歳の夏に食べたスイカの味や、五歳のとき祖母の畑でかじった、採れたてのトマトの味と匂いが、いまも体の奥に残っている。あの一口が、六十を超えたいまの僕を、畑へ向かわせている。
けれど、いまの子どもたちの多くは、その一口に出会わないまま大人になっていく。そして、比べるための“本当の味”を知らないまま、値段で野菜を選ぶようになる。
袋詰め放題の列を見ながら、僕が考えていたのは、そのことだった。
一方で、まったく違う場所もある。
京都市内の日仏学館で、古くから続いている「ル・マルシェ」というマルシェがある。先月、そこにはじめて出店した。
先月のル・マルシェ。宇治田原の畑で育てた野菜と、どくだみ茶、ムクナ豆を並べた。
客層が、まるで違った。
京都に暮らすフランスの人たちが、たくさんやって来る。ほかの出店者さんも、それぞれにこだわりの品を並べていて、お客さんはそれを“求めて”足を運んでくる。
安いから買うのではなく、“どう作られたものか”を見て、選んで、買っていく。
聞けば、昔はこのマルシェに、こだわりの農家がたくさん出店していたらしい。
食べものを、値段ではなく、その背景ごと受け取る人たちがいる。そのことに、僕は少し救われる思いがした。
二つのマルシェで見た、二つの光景。
どちらが正しい、という話ではない。ただ、僕にははっきりと分かったことがある。
“本物の野菜を、もっと多くの人に伝えたい。”
それは、すでにその価値を知っている人のところへ届けるだけでは、足りない。袋詰め放題の列に並んでいた、あの人たちにこそ、いつか一度、本当の野菜の味に出会ってほしい。説明ではなく、その一口で、体が「違う」と分かってしまうような出会いを。
だから僕は、年内、月に一度のル・マルシェに毎回出店するつもりだ。
そして、こうして文章を書き、自然農の野菜づくりを伝えていく。
ベランダのプランターからでもいい。自分の手で育てた一つの野菜が、その人のものさしを、静かに変えていくと信じているから。
もし京都の近くにお住まいなら、ぜひ一度、マルシェに足を運んでみてください。野菜を手に取って、話をしましょう。
“京都日仏学館 ル・マルシェ ― 年内の出店予定”
10月18日(日)
11月15日(日)
12月12日(土)・13日(日)マルシェ・ド・ノエル
いずれも10時〜16時
このSubstackでは、自然農の考え方や、ベランダで本物の野菜を育てる方法を書いています。よければ購読して、続きを一緒に読んでください。



