昨日の夕方、京都駅にいた。
大階段のほうから、西日が斜めに差し込んでいた。硝子張りのビルに光が跳ね返り、段の一つひとつに、くっきりと影が伸びる。上っていく人の姿が黒く抜けて、シルエットになる。夕方のこの数十分だけ、駅がまるで舞台のように見える時間帯がある。硬い光と深い影。撮るなら、いましかない光だ。
その光の中を後にして歩き出した。ふと、一人の女性に目が行った。
綺麗な人だな――そう思った。その人の前を通り過ぎながら、私は何度も横目で見ていた。撮るか、どうしようか。迷っている間も、足だけは前へ進んでいく。けれど、通り過ぎてしまったあとで、頭より先に、体のほうが言った。“いましかない。”気づいたときには、もう振り向いていた。
スマートフォンに視線を落とす、その一瞬。周りの雑踏がすっと遠のいて、彼女だけが、静かにそこにいた。切ったのは、たぶん一枚か二枚。それで終わりだ。もう一度は、ない。次の瞬間には、光も、姿勢も、あの空気も、すべて変わってしまうのだから。
手にしていたのは、Pentax K-1 Ⅱに、43mmのレンズが一本。43mmは、人の目に映るのとほとんど同じ画角だと言われる。望遠のように引き寄せることもなく、広角のように誇張することもない。振り向いた私の目に入ったそのままの距離で、彼女はそこにいた。だから撮れたのだ、といまは思う。余計なものが、間に入らなかった。
「振り向く」ということ
見知らぬ人にレンズを向けるとき、いつも一瞬、ためらいがある。撮っていいのか、と。でも、そのためらいと闘っているうちに、その瞬間はもう過ぎてしまう。だから振り向くしかない。振り向くというのは、“この一瞬は二度と戻らない”と、体が知っている証拠なのだと思う。
写真というのは、突きつめれば、この「振り向く」の連続なのかもしれない。すれ違い、通り過ぎ、それでも戻って、シャッターを切る。あとで撮ろう、は効かない。その場に居合わせた眼と身体でしか受け取れないものが、たしかにある。
舞台と、そこを横切る人
もう一枚は、その大階段そのものだ。
西日を背にした人々が、シルエットになって階段を上っていく。空には雲が流れ、硝子のビルがそれを映し込む。誰かの一日の終わりが、無数に交差していく場所。名前も知らない人たちが、ただ通り過ぎていく。
この一枚は「舞台」で、さっきのポートレートは「そこを横切った一人」だ。私はいつも畑で、いのちの巡りを撮っている。土から芽が出て、実り、朽ちて、また土に還る。あの循環と、京都駅の夕方の雑踏とは、まるで違う世界に見えて、根っこは同じだと思う。“いま、ここでしか受け取れない時間”を、一枚に留めること。畑でも、駅でも、私がやっているのは、たぶんそれだけなのだ。
だから今日も、振り向く。
── 撮る人へ、手帖の余白に
もし、あなたも街でカメラを持つなら。最後に、いくつか書き添えておきたい。
一つ。“迷ったら、撮る。”撮ろうか、やめようか――そう迷った時点で、あなたの中の何かが、もう反応している。その迷いは「撮る理由」であって、「撮らない理由」ではない。通り過ぎてしまったら、振り向けばいい。あとで撮ろう、だけは効かない。
一つ。“レンズは一本でいい。”できれば、43mmや50mmといった「標準」を。目に映る距離のまま撮れるレンズは、余計なものを間に入れない。何を足すかより、何を足さないか。それを教えてくれる。
一つ。“場所より、光の時間を待つ。”同じ京都駅でも、あの西日が差すのは、夕方のほんの数十分だけだ。良い被写体を探して歩き回るより、良い光の時間に、良い場所で待つ。「いましかない光」は、いつも時間で決まっている。
そして最後に、一つ。“撮ったら、去る。”一枚か二枚、受け取れたら、それで十分だ。撮りすぎない。とりわけ見知らぬ人を撮らせてもらうときは、そのくらいの慎みが、ちょうどいい。写真は、奪うものではなく、受け取るものだと思うから。
振り向く勇気と、去る潔さ。その両方があって、はじめて一枚が撮れる。




