祇園祭の鉾立が始まるのは、毎年7月10日。今日は会社へ郵便物を取りに行った帰りに、カメラ機材を提げて、その現場へ足を向けました。着いたのは、ちょうど組み上げのピークでした。
大きな鉾が、釘を一本も使わず、荒縄だけで組み上げられていく。木と縄、それだけで、何トンもの神の乗り物が立ち上がっていく——それを見ているだけでも、胸が高鳴りました。加えず、頼らず、素材そのものの力を信じて組む。その姿は、耕さず、肥料もやらない僕の畑と、どこか同じ思想でできているように感じました。
けれど、いちばん心を掴まれたのは、この一枚でした。
乾いた藁の飾りに、みずみずしい緑の枝を、職人さんが丁寧に結びつけている。片方は、役目を果たして乾いていく命。片方は、今まさに生きて、葉を茂らせている命。その二つが、神に捧げるために、そっと寄り添わされていく。
ファインダー越しに、思わず息を止めていました。
技を撮るだけなら、縄を巻く手や、木を組み上げる一瞬を狙えばいい。でも、僕がシャッターを切りたくなったのは、そこではありませんでした。乾いたものと、生きているもの。その二つが結ばれていく、静かな一点。祭りの熱気でも、勇壮さでもなく——ただ、捧げるという、ひそやかな所作に、光が射していた。
今回も、望遠は使いませんでした。手にしていたのは31mmの単焦点。遠くから引き寄せるのではなく、自分の足で近づいて、同じ空気のなかで撮りたかった。だから、観光客がスマホを掲げ、幾重にも視界が遮られるなか、少しだけ割り込ませてもらって、やっと一枚を掴みました。
その窮屈さに、既視感がありました。以前スリランカの仏歯寺で、人々が花を捧げる台の前に立ったときと、同じ身体の感覚です。撮りたい一点は、いつも人混みの向こうにある。それでも——この対比だけは、逃したくなかった。
撮るというのは、結局、何を見つけて、どの一瞬を選ぶか、なのだと思います。同じ現場に何十人が立っていても、切り取る場所は人によってまるで違う。目の前の混沌のなかから、自分が「これだ」と感じる一点だけを掬い上げる。この一枚は、たぶん、僕にしか撮れなかった。そう思える写真に出会えた朝でした。
背景には、みずほ銀行の青い看板。現代のビル街の真ん中で、千年変わらない所作が、静かに繰り返されている。伝統と革新は、対立していない。ただ、同じ通りに、同じ光のなかに、並んで在るだけなのだと思います。
用事のついでの、短い寄り道でした。それでも、日付を覚えていて、カメラを持って出てよかった。こういう一瞬に出会うために、その日を待って街へ出るのだと思います。
祇園祭は、まだ続きます。京都にお越しの際は、ぜひ、鉾のそばまで。立ち止まって眺めていると、縄の一本、緑の一枝に、ふだんは見過ごしている表情が見えてきます。
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カメラ: PENTAX K-1 Mark II / レンズ: HD PENTAX-FA31mm F1.8 Limite




