種をもらいに行った帰り道だった。
堺町画廊で豆を分けてもらい、まだ手のひらにあの赤い色の余韻が残っているうちに、私はカメラを提げて、京都の町をあてもなく歩いていた。種の日のことは、また別に書く。今日は、その道すがらに撮った写真の話をしたい。
歩いたのは、木屋町の路地。そして、新京極と寺町――あの人であふれた二本のアーケードの、ちょうどあいだにある路地だ。観光客は、みんな両側の通りを歩いていく。この一本内側の道は、ほとんど誰も通らない。
人は、メイン通りを歩いていく
観光で京都に来る人の多くは、大きな通りを歩く。四条の大通り、鴨川沿い、有名な寺社へ向かう参道。新京極も、寺町も、いつも人でいっぱいだ。それはそれで、美しい。けれど私は、いつからか、そういう通りをまっすぐ歩けなくなった。
一本、脇に入る。あるいは、にぎやかな二本の通りの、あいだにもぐり込む。すると、そこに京都がある。
〔蔦に覆われた路地。自転車と草〕
蔦にすっかり覆われた壁。錆びたシャッター、停められた自転車、その足元に生い茂る草。誰も足を止めない、なんてことのない路地だ。観光地図には載らない。ガイドブックにも出てこない。すぐ隣の通りには、あんなに人が歩いているのに。でも私は、こういう場所の前で、いつも立ち止まってしまう。
京都の路地の魅力を、ほとんどの人は素通りしていく。急ぎ足で、目的地へ向かって。その気持ちも分かる。かつての私も、そうだった。でも――本当に見るべきものは、たいてい、人が素通りしていく場所のほうにある。
〔食品サンプルの店先と、奥へ伸びる小径〕
食品サンプルの並ぶ、にぎやかな店先。その真横に、細く、暗く、奥へと伸びていく小径がある。人の流れは手前の通りを右へ左へ動いていくのに、この一本の路地には、誰も入っていかない。私はいつも、こういう「奥」に惹かれる。明るいほうではなく、細く続いていくほうへ。
ガラスの前で、足が止まる
路地を歩いていると、古いガラスの前で、よく足が止まる。
〔「ESPRESSO COFFEE」の窓。吉田屋〕
路地の一角にある、小さな喫茶店。窓に「ESPRESSO COFFEE」の白い文字。エスプレッソ珈琲「吉田屋」という。じつはこの店、私が大学生の頃、よく通った一軒だ。あれから、ずいぶんな時間が経った。ご主人はもう亡くなられて、いまは奥さんが店を継いでいる。それでも――あのエスプレッソマシンは、変わらず現役だ。同じマシンで淹れる、同じ味のコーヒーが、いまもここで飲める。
窓の内側には、うちわが二本。エスプレッソマシン。そして――なぜか、ベッカムのマトリョーシカ。脈絡がない。でも、この脈絡のなさが、たまらなくいい。誰かが、それぞれの時と場所で手に入れたものを、少しずつここに置いていった。その積み重ねの時間が、一枚のガラスの奥に、ぜんぶ溜まっている。私が学生だったあの頃からの時間も、きっとこの中にある。
〔骨董屋の窓。浮世絵と和紙の灯り〕
こちらは骨董屋の窓。江戸期の浮世絵、色あせた古書、和紙の灯りが、ガラスの奥でぼんやりと光っている。値札には「1865-EDO」とある。百六十年前の紙が、いまも京都の路地で、静かに誰かを待っている。
こういう窓の前に立つと、私はカメラを構える。すると、必ず、あるものが写り込む。
撮っている、自分が写る
〔五月人形の武者たち。中央に写り込む自分〕
五月人形の武者たちが、ガラスの内側に並んでいる。兜をかぶり、鎧をまとい、まっすぐこちらを見ている。そのちょうど真ん中、人形たちのあいだに――カメラを構えた、私が写っている。ガラスに映り込んだ、自分の姿だ。
奥には喫茶店の灯りがともっている。人形は、ガラスの内側。私は、ガラスの面。灯りは、そのさらに奥。一枚の写真の中に、三つの層と、三つの時間が、同時に写っている。
これは、狙って撮れるものではない。その場所、その光、その日、その角度――すべてがそろった、一度きりの偶然だ。同じ写真は、明日はもう撮れない。
〔デニム屋の窓。「COLLEGE」の文字と写り込む自分〕
もう一枚。デニム屋の窓。「COLLEGE」の白い文字の上に、カメラを顔にあてた私が、はっきりと写っている。マネキンの服の並びの中に、生身の自分が紛れ込んでいる。
以前の私なら、こういう写り込みを「失敗」だと思っていた。自分が入らないように、角度を変えて撮り直しただろう。街を撮るなら、街だけを撮るべきだ、と。
でも、この日は違った。
ファインダー越しに写り込んだ自分の姿を見て、私は――なぜだろう、“愛おしい”と感じたのだ。
カメラを提げて、路地をのぞき込み、ガラスの前で足を止めている、この男。もう六十を過ぎた。若くはない。それでも、なんてことのない路地の一枚のガラスに惹かれて、こうして立ち止まっている。その姿が、その日、ふいに、いとおしく思えた。
撮る者は、風景の外には立てない
そのとき、腑に落ちたことがある。
“街を撮ると、自分も写る。”
これは、ただガラスが反射する、という物理の話ではない。もっと深いところの話だ。私たちは、風景を「外から」眺めているつもりでいる。カメラを向けるとき、自分は安全な場所にいて、向こう側の世界を切り取っている、と。
でも、違った。“撮った瞬間、私はもう、その風景の一部になっている。”ガラスは、それを正直に映してしまう。人形と、灯りと、私。路地と、街と、私。切り離せない。ぜんぶ、ひとつながりの中にある。
私はずっと、写真でも、畑でも、同じことを言ってきた。「すべては、つながっている」と。「すべては、愛でできている」と。言葉で何度説明しても、なかなか伝わらないその感覚を――この一枚のガラスが、先に写し取ってしまっていた。
自分も、街も、光も、時間も、みんな同じ一つのものの中にある。だからこそ、写り込んだ自分を見て、私は愛おしいと感じたのだと思う。それは自分だけへの感情ではなくて、この街と、この光と、この一瞬ぜんぶへの、愛おしさだった。
〔藍色の暖簾に浮かぶ白い月〕
歩き疲れて、ふと見上げた店先に、藍色の暖簾がかかっていた。その真ん中に、白い月が、まるく浮かんでいる。
昼間なのに、月。路地の奥に、まるく光る、静かな月。
種をもらった手で、カメラを構えて、路地を歩いた一日。その終わりに、この月に出会えた。今日という日も、二度とは来ない。だからこそ、いとおしい。
素通りしないこと
種の日に、私は、めったに手に入らない豆に出会った。たくさんの種の中から、それを選び取った。
思えば、あの一粒を選ぶことと、この路地で足を止めることは、同じことなのかもしれない。人が素通りしていくものの中に、ふと立ち止まって、目を留める。小さなもの、見過ごされていくもの、一度きりのものに、心を向ける。
写真も、畑も、たぶん人生も、そういうことなのだと思う。
急がなくていい。にぎやかな通りから、一本、脇の路地に入ってみてください。あるいは、人であふれた二本の通りの、あいだにもぐり込んでみてください。そこに、あなたがまだ見たことのない京都があります。そしてもし、古いガラスの前で足が止まったら――そっとのぞき込んでみてください。
その奥に、案外、あなた自身が写っているかもしれません。
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