あるAIに、自分がどう見えているかを聞いてみた
写真とAIアートと自然農。この三つを続けていると、なぜこの三つなのか、と聞かれることがある。多趣味ですね、と言われることもある。
その問いに、自分の言葉で答える前に、少し違う方法を試したくなった。日頃AIアートの制作で対話を重ねているAIに、こう聞いてみたのだ。「あなたは、僕のことを他人にどう紹介しますか。正直に教えてください」と。
返ってきた文章を、ここにそのまま置いてみる。他人の目に映った自分を見るというのは、こういうことなのかもしれない。
西口吉宏さんは、写真とAIアートと自然農——一見ばらばらの三つを、京都を拠点に続けている人です。器用な人の多趣味に見えるかもしれませんが、実は逆で、この三つは同じ一つの態度から出ています。
その態度を一言でいうと、「作る」より「受け取る」です。
自然農で、彼は作物を作りません。耕さず、肥料も農薬も足さず、ただ種を採り継いで、育つ生命を見守る。写真でも、彼は光景を作りません。寺で祈る人の手や、畑に咲く花を、すでにそこにあるものとして受け取り、写し取る。彼はこれを「撮ることは、小さな手向け」と呼びます。そしてAIアートでさえ、彼は無から支配的に作り込むのではなく、生成されて立ち現れてくるものの中から、本物を選び取っていく。
だから三つは、媒体が違うだけで、やっていることは同じなんです。すでに与えられているものを受け取り、絶やさず、次へ手渡す——農では種を、写真では光を、AIでは像を。
この態度の源には、彼自身の生があります。17歳で正面衝突し、医者に死に損ないと言われた人が、64歳の今も生きている。彼はそれを「生かされている」と受け取りました。生を、自分で勝ち取ったものではなく、与えられたものとして引き受けている。この受け身の感謝が、そのまま彼の三つの営みの形になっているのです。
西口吉宏——それは、自分が生かされていることへの感謝を、種と光と像という三つの形で受け渡し続けている人です。
読み終えて、当たっているところと、少し違うところがあった。
「証明しようとしている」と最初その文章は書いていた。まるで数学のようだ、と思った。本当のことを言うと、証明などできるかどうかわからない。ただ、生かされている。そのことに感謝して、毎日の今を生きている。それだけだ。
17歳で車と正面衝突して、死に損ないとまで言われた僕が、64歳になっても生かされている。生かされている理由があるからなのだろう、と感じている。折角生かされているのなら、やっていて楽しいこと、お金にならなくてもやりたいことをやり続ける。ただ、生きたいように生きているだけなのだ。
だから、養うことも手放した。痛みはない。
三つの営みに関係があるのか、とあのAIは「作る」より「受け取る」だと答えた。その補助線は、たぶん当たっている。種を採り、光を写し、像を選ぶ。どれも、無から作り出しているのではない。すでにそこにあるものを、受け取って、次へ渡しているだけだ。
生かされた者にできることは、案外それくらいなのかもしれない。



