和歌・俳句・水墨画が教えてくれた、写真の「余情」
今朝、畑でカボチャとキュウリを何枚か撮った。撮り終えてから写真を見返していて、ふと気づいたことがある。和歌の表現技法と、写真で「良い」とされる構図の作り方が、驚くほど重なっているのだ。
そのことを考えているうちに、範囲は和歌だけに留まらないと分かってきた。俳句にも、水墨画にも、同じ美学が形を変えて流れている。三つとも入り口は違うのに、行き着く先は同じところにある。「全部を語らない」「全部を描かない」ということだ。
余情という一つの美学、三つの入り口
和歌(三十一文字)、俳句(十七音)、水墨画(墨と紙)は、それぞれ違う制約を持つ表現形式だが、どれも「限られた枠の中に、伝えたいものをどう収めるか」という問題に向き合っている。そして三つとも、答えは足し算ではなく引き算の方にあった。
和歌は**言葉**を削り、俳句は**音**をさらに切り詰め、水墨画は**線**そのものを省いて紙の白さに語らせる。感覚の入り口(聴覚的な言葉、視覚的な墨)は違っても、削った先に生まれる沈黙や空白が、見る人・読む人の想像力を引き出す力になっている点は共通している。
和歌に学ぶ:重ねる余情
和歌には本歌取り(先行する歌を下敷きにする)、枕詞・序詞(本題の前に置く導入)、掛詞(一語に二つの意味を重ねる)、縁語(関連する語を響かせ合う)といった技法があるが、根底にあるのは**余情**だ。言葉にしない部分に情感を残し、読み手の想像に委ねる。
西行のこの一首がその典型だ。
> 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
「あはれ」が何なのか、歌は一切説明しない。鴫が飛び立つ沢、秋の夕暮れ、という景だけを置いて、そこに宿る寂寥感は読み手の側に生じさせる。三夕の歌に共通する体言止め(名詞で歌を終える技法)も、動詞で説明的に着地せず、映像だけをふっと置いて余韻を残す仕掛けだ。和歌の余情は、複数の言葉やイメージを重ねることで奥行きを作る技法だと言える。
俳句に学ぶ:切る余情
俳句は和歌よりさらに短い十七音しかない。だから省略はもっと過激になる。松尾芭蕉の
> 古池や蛙飛びこむ水の音
は、「や」という切れ字で一度言葉を断ち切り、そこに生まれる沈黙(間)に意味を込めている。音を描くことで、かえって静寂そのものを浮かび上がらせているのだ。芭蕉が晩年に追求した「寂び」「しをり」「ほそみ」といった美意識も、感情を直接語らず、景物や余白の向こうに滲ませるという点で余情そのものだ。
和歌が言葉を重ねる技法だとすれば、俳句は言葉を切る技法だと言える。写真で言えば、シャッターを切る瞬間そのものではなく、その前後の静けさをどう画面に残すか、という発想に直結する。
水墨画に学ぶ:消す余情
水墨画は、そもそも言葉を使わない。墨で描いた線より、描かなかった余白の広さの方が意味を持つことすらある。
牧谿(南宋の画僧)の「六柿図」は、柿を六個並べただけの絵だが、周囲の余白の使い方だけで静けさを作り出している。雪舟等楊はこの牧谿に学び、国宝「破墨山水図」などで日本の水墨画を一つの到達点まで押し上げた。そして長谷川等伯の「松林図屏風」は、画面のほとんどを霧のような余白が占め、松の輪郭だけが淡く浮かぶ。等伯自身「雪舟五代」を名乗るほど、牧谿と雪舟の系譜を意識していた画家だ。
水墨画の余情は、和歌や俳句のように言葉を削るのではなく、視覚そのものを消すことで奥行きを作る。手前をぼかして被写体を半分隠す写真の手法は、実はこの水墨画の余白の使い方と一番近い関係にある。
畑で気づいたこと
今朝撮った写真を並べてみると、この三つの技法がそのまま写真の良し悪しに直結していることが分かった。
一番うまくいった一枚は、手前の葉と黄色い花が大きくぼけていて、その向こうに実がぽつんと写っている写真だった。実そのものは決して隠れていない。むしろ画面の中で一番光が回っていて、一番シャープな場所になっている。ただ、そこに至るまでに手前のぼけた葉を「通り越して見る」という一手間が入る。これは和歌の序詞の構造でもあり、水墨画の余白が霧として機能するのとも同じ発想だ。
逆にうまくいかなかった一枚は、被写界深度を深くして画面全体にピントを合わせた写真だった。葉脈も、支柱のワイヤーも、虫食い穴も、すべてが同じ解像度で写っている。情報量は多いが、見る人が想像で埋める余地がない。縁語で使うはずの言葉を全部説明してしまい、水墨画で言えば余白を残さず画面を墨で埋め尽くしたようなものだ。
さらに別の一枚では、逆に隠しすぎて失敗した。小さな蕾が影に沈み、周囲との明暗差もほとんどなく、偶然重なった草の葉に紛れて見えなくなっていた。これは「隠す」のではなく単に「埋もれている」状態だ。和歌も俳句も水墨画も、余情のために言葉や線を削りながら、景色を思い描けるだけの手がかり(鴫、沢、秋の夕暮れ。あるいは六個の柿、一本松の輪郭)は必ず残している。全部消してしまえば、そもそも何を描いたのか分からなくなる。写真も同じで、隠す部分と、視線を引き止める確かな一点(光、ピント、コントラストのどれか)の両方が必要なのだと思う。
一番印象的だったのは、萎れかけた花がまだ実に直接くっついたまま写っている一枚だった。花と実を別々に配置して関係を暗示させるのではなく、変化そのものが一つの形の中に写っている。これは縁語で二つの言葉を響かせるというより、本歌取りのように一つの対象の中に前後の時間を畳み込んでいる感覚に近い。
反対に、花が正面から完全に開いた状態で画面いっぱいに写った一枚もあった。中心のめしべまで、花びらの脈の一本一本まで見せてしまっている。これは千利休の朝顔の逸話を思い出させる。秀吉が利休の見事な朝顔を見たいと訪ねたところ、庭の花はすべて刈り取られていて、茶室の床の間にたった一輪だけが活けてあった。満開の庭全部を見せるのではなく、一輪に絞ることで、かえって朝顔という花全体の儚さが強く伝わったという話だ。余情はまさにこの発想の延長線上にある。
ポートレートにも当てはまる
被写体が植物ではなく人になっても、この原理は変わらない。表情のピーク(満面の笑み、感情がはっきり読み取れるポーズ)を外し、視線をカメラから逸らし、顔全体を見せず横顔や後ろ姿にする。能面が一つの表情しか彫られていないのに、角度をわずかに変えるだけで喜怒哀楽すべてを表現できると言われるのと同じ発想だ。役者は感情を大袈裟に演じず、ほとんど動かないことで観客の想像力を引き出す。
ただしポートレートには注意点もある。余情を追求しすぎて隠しすぎると、単に「何を撮りたいのか分からない写真」になる。和歌も俳句も水墨画も、削りながら確かな手がかりは必ず残していた。隠す部分と、確かな手がかりを一つ残す部分、そのバランスが常に問われる。
参考になる写真家
余情の感覚を掴むうえで、実際の作品を見るのが一番早い。
ソール・ライター(Saul Leiter, 1923–2013)は、雨や湯気で曇った窓越しに街を撮り続けた写真家だ。人物の顔はほとんど写らず、遮蔽物そのものが表現の言語になっている。
川内倫子(1972–)は、2001年に『うたたね』『花火』で木村伊兵衛賞を受賞した日本の写真家。ありふれた日常の一場面を、儚さや壊れやすさを孕んだ崇高なイメージへと転換させる叙情的な作風で知られる。
マイケル・ケンナ(Michael Kenna, 1953–)は、無人の風景を長時間露光で撮るイギリスの写真家。自身の作品を「長編小説ではなく、視覚的な俳句だ」と語り、日本の俳句とZenの美学から直接的な影響を公言している。
杉本博司(1948–)は、映画館のスクリーンを一本の映画上映時間まるごと露光して撮る「劇場」シリーズや、水平線だけで構成される「海景」シリーズで知られる。
ホー・ファン(何藩, Fan Ho, 1931–2016)は、1950年代の香港を光と影で描いた写真家。朝夕の斜光を使って被写体の一部を影に沈め、残りだけを浮かび上がらせる手法を多用した。
俳句や禅の側から写真に入った人たちもいる。マイナー・ホワイト(1908–1976)は禅を学び、写真を精神修行そのものと捉えた。愛読書はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』。アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)も同じ本に強い影響を受け、「決定的瞬間」という概念を禅の弓道における「矢が自然に放たれる」感覚と重ねて語っている。ホワイトの弟子だったジョン・ダイド・ルーリ(1931–2009)は、写真と瞑想を学んだ後に正式な禅僧となり、最終的には禅道場の住職になった。写真家でありながら聖職者でもあるという、歌人でありながら僧でもあった西行を思わせる存在だ。
学ぶための、地味だけど効く方法
理屈を知るより、体に染み込ませる方が結局は近道だと思う。
和歌・俳句は、まず読むところから始めるのがいい。芭蕉なら角川ソフィア文庫『おくのほそ道(全) ビギナーズ・クラシックス』が予備知識なしで読める入り口になる。もう少し深く読みたければ同じ角川ソフィア文庫の『新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き』、句だけを味わいたければ『覚えておきたい芭蕉の名句200』がいい。読んだら「もしこの歌・句をカメラで撮るなら何を写すか」を考えてみる。
水墨画は、まず見るところから始めるのがいい。牧谿の「六柿図」、雪舟の「破墨山水図」、長谷川等伯の「松林図屏風」を画像で見て、余白がどこにどれだけ配分されているかを観察する。入門書としては岩波新書の『水墨画入門』(島尾新)が読みやすい。
そして何より、シャッターを切る前に「この場面で一番説明的な要素は何か」を考え、それをあえてフレームから外してみる。過去に撮った写真をトリミングし直し、情報を減らす方向に編集してみる。日常の中で「出来事そのもの」ではなく「その痕跡や気配」だけを一枚撮る習慣を続けてみる。使われた後のコップ、開いたままのドア、萎れかけた花に残る実の気配。
理屈の理解は感覚を言語化する助けにはなるけれど、実際に体得するには、撮って、選んで、削る反復が必要なのだと思う。畑の野菜を撮りながら、そんなことを考えた朝だった。




