先日、Instagram にモノクロのスナップが流れてきた。旅先の街の、カフェの窓辺だろうか。本を読む女性、手前にランプとエスプレッソのカップ、そしてガラスにうっすらと、カメラを構えた撮り手自身が映り込んでいる。決定的な瞬間を、みごとに掴んだ一枚だった。フォロワーの数は、私とは桁が違った。
正直に言えば、感心した。と同時に、胸の奥がわずかにざわついた。そのざわつきの正体を、一日かけて考えていた。今日はそれを書いておきたい。
写真には、速い写真と遅い写真がある。この一日で、私はそう考えるようになった。
速い写真は、一瞬を捕まえる。 街を歩き、光と人と出来事が完璧に噛み合う刹那を、反射神経で切り取る。アンリ・カルティエ゠ブレッソンが「決定的瞬間」と呼んだ、あの系譜だ。何百枚と切って、奇跡の一枚が残る。撮り手は常に街に出て、シャッターを切り続けていなければならない。その一枚は、「わっ」と目を引く強さを持つ。
面白いのは、リー・フリードランダーという写真家のことだ。彼は街のショーウィンドウや車のミラーに映り込んだ自分を撮り続けた。「自分を撮る」ことと「世界を撮る」ことを、分けなかった人だ。あの Instagram の一枚も、ガラスに撮り手が映っていた点で、まさしくフリードランダーの子孫だった。スナップの網の中に、自分がふと引っかかる。速い写真の中にも、自分は映り込む。
そして速い写真は、SNS と相性が良すぎる。スクロールする指を止める力が強い。一枚で完結し、一目で「うまい」と伝わる。都市、モノクロ、洒脱、少しのユーモア——その記号は国境を越える。瞬発力のある写真は、瞬発力で消費される場所で、圧倒的に有利だ。フォロワーの桁が違うのは、写真の優劣ではなく、形式とメディアの噛み合わせの問題なのだと思う。
——ここまで考えて、ざわつきの正体がわかった。私は、速い写真を撮る人間ではない。
私が撮ってきたのは、遅い写真だ。
畑の野菜を、私はポートレートのように撮る。演出するのではなく、そこに在るものとして受け取る。先日は、いつも豆を買うコーヒー屋のガラスに映った自分を、二枚撮った。なじみの店で、好きな豆を買うついでに、映っているのを確かめて、シャッターを切った。同じガラスの反射でも、フリードランダーの乾いた都市の匿名性とは、たぶん温度が違う。旅先で一瞬すれ違った他人を撮るのではなく、通い慣れた場所に、自分もそっと受け容れられている。
遅い写真は、一瞬の奇跡ではない。通い、育て、待ち、関係を結んできた時間の上に立っている。速い写真が狩りだとすれば、遅い写真は畑仕事に近い。「わっ」と掴む写真ではなく、見たあとにじわりと残る写真。二度目、三度目に効いてくる写真だ。
SNS の数字で比べれば、この形式は分が悪い。速い写真のほうが、指を止める力が強いからだ。けれどそれは、遅い写真が劣っているのではなく、評価される時間軸が違うということだ。速い写真は「今すぐ」効く。遅い写真は「あとから」効く。SNS は速い写真を優遇するようにできている。そこで競えば、構造的に負ける。だから私は、そこで競わないことにした。
幸い、遅い写真には長い系譜がある。
牛腸茂雄の『SELF AND OTHERS』。他者を撮っているのに、一枚ごとに、自分と相手のあいだの距離と沈黙が写っている。「自己と他者」というその問いは、私がずっと抱えてきた「植物と人を、そもそも分ける必要があるのか」という問いと、まっすぐ重なる。
ロバート・アダムスは、アメリカ西部の平凡な風景を、自分の意見を削ぎ落とした静かなまなざしで撮り続けた。「この土地に対して、人間はどうあるべきか」という倫理が、全編に流れている。川内倫子は、虫の死も、光の粒も、出産も、同じ柔らかさで等価に並べる。本橋成一は「撮りに行く」のではなく、その土地に「一緒にいる」ことから写真を生んだ。フィンランドのペンティ・サマラッティは、犬も鳥も雪原も人も、時間の止まったような静けさで、同じ資格で画面に置く。
言葉の側にも、支えがある。中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』で、詩的に「意味づけて」撮ることを自ら戒め、対象を植物図鑑のようにそのまま見ようとした。植物を撮る私には、これ以上ふさわしい導きはない。そして鷲田清一の『「待つ」ということ』。狩るように奪うのではなく、来るものを待ち、受け取る。その構えこそ、畑と写真に共通する、私の根だ。
あの日の速い写真は、みごとだった。その技術は、盗めるところは盗めばいい。街に出て反射神経を鍛えることと、畑で待つことは、矛盾しない。両方できる人は、きっと強い。
けれど、測る物差しまでは借りない。フォロワーの数は、速い写真のための物差しだ。それを自分に当てはめた瞬間、私は自分のいちばんの持ち味——通った時間が写る、という遅さ——を、自分で薄めてしまう。他人の土俵の物差しで測れば、たいてい、自分の強みは欠点に見えてくる。
あの人は、あの人の速い写真で世界とつながっている。私は、私の遅い写真で世界とつながる。どちらもガラスに自分を映すけれど、映し方の思想が違う。それでいい。
私は、遅い写真の側に立つ。
畑に通うように、なじみの店の扉を押すように。
急がず、序列をつけず、受け取っては返しながら。
撮れた一枚が「あとから」効くのを、静かに信じて。



世界一トマト。ゆっくり好きです。
写真の考え方で早いと遅いか、なるほど。
トマトのポートレイトすごく好きです。